池田屋事件から蛤御門の変。そして崩壊へ。(ネタばれあり?)

今週のNHK大河ドラマ新選組!』。先週の池田屋事件新選組のピークとすると、あとはチリヂリバラバラの運命に。
今週は早速原田左之助と近藤たちの対立の伏線がありました。史実では原田左之助は永倉とともに結成した靖共隊を途中で脱退した後、上野に立てこもった彰義隊に名を連ねていたという説があります。そこでの死亡が確認されていないため、大陸に渡って馬賊になったという説もあるくらいです。
他の試衛館時代からの仲間も続々と離れていってしまいます。
来週は永倉新八の反乱ということですが、結果的にそのうしろにいる総長・山南敬助へ話は流れていきます。山南はその方向性の食い違いから局を抜け出し、連れ戻され切腹。この隊の脱走に関しては事実かどうかというのは諸説分かれますが、切腹となったことは事実のようです。
永倉はすぐに姿を消すことはありませんでしたが甲陽鎮撫隊(甲陽鎮撫隊については下記、近藤勇の記述参照)の崩壊とともに姿を消し、原田左之助とともに靖共隊を結成。のちに出自である松前藩に帰藩し、維新後は小樽に移り住んだそうです。主要隊士の中では一番長生きをした彼の証言の数々が新選組を知るためのバイブルとも言うべき子母澤寛の『新撰組始末記』をはじめとする新撰組三部作が出来る上で欠かせないものとなりました。
藤堂平助はこれから新撰組に合流する伊東甲子太郎とともに新撰組本隊から分隊した(事実上の決裂)御陵衛士に加わることになります。この御陵衛士尊王思想に突出*1し、そのためには幕府は不要と考える伊東の思想のもと作られた組織です。もともとはこの伊東の門下生であり、伊東合流の下地を作った藤堂は最後は新撰組の伊東暗殺事件(油小路の変)において罠を承知で現場に駆けつけ、昔からの親友である永倉がうまく見逃そうとしたところを、事情を知らない隊士に斬られたといいます。
この藤堂同様、御陵衛士に加わった斎藤一は近藤一派のスパイとして潜り込んだといわれています。事実、彼は油小路の変の直前に山口次郎(二郎)と名を改め*2新撰組本隊に復帰しています。斎藤は近藤が甲州鎮撫隊の頭領として新政府軍にとらわれて斬首されるのとは別に*3、土方とともにあくまでも新撰組として幕軍の中にあり会津入りします。斎藤は土方が怪我で指揮を取れないときには彼の代理として新撰組を指揮しますが、のちに土方と決裂(?)して奥州に残り、維新後には警察官、教官として働きます。話はそれますが、和月伸宏のマンガ『るろうに剣心』に出てくる斎藤一が最初に名乗る藤田五郎というのはその警察時代に使っていた名前だといわれています。ちなみにその登場シーンで最初に持っていた「石田散薬」とは多摩時代の土方歳三が売り歩いていた薬の名前です。(笑)
あと有名なところとしては沖田総司。よく知られている通り、結核で体を壊し近藤が斬首されたことを知らずになくなりました。最後は江戸で寝たきりのところ、庭に入ってきた黒猫を斬ろうとしたけど、構えることもできないほど弱りきってしまったというエピソードもあります。ちなみにドラマやマンガでは特に美青年として描かれることの多い彼ですが、本当の沖田は若くしての天才剣士というのは事実だったそうですが、美青年という記述はなく平目顔だったそうです。美人薄命ではありませんが、その結核という病気とあいまって作られていったイメージなんでしょうね。
局長の近藤勇鳥羽伏見の戦いの敗退後、江戸に入り、幕府から大名待遇で受け入れられ名を替えたのち、前述の甲州鎮撫隊として新撰組の隊士を中心にした部隊を率い甲州鎮圧に向かいます。結果、作戦は失敗し、後に流山で自ら官軍に降伏。斬首となりました。
そして最後まで残った江戸出立以来の幹部は土方歳三のみ。途中怪我で離脱したこともありましたが、最後まで新政府軍に抵抗し、箱館(現在の函館)戦争にて戦死。最後まで「誠」の旗を掲げた彼に従った新撰組隊士は島田魁など少数でしたが、その勇猛果敢な戦いぶりは今も伝えられ、彼が戦死した場所には碑が立てられています。(数年前、多少移動したそうですが。)
なんて、ドラマ『新選組!』後半に向けて自分の中でもちょっとおさらいしておこうと思い書いてみました

*1:新撰組尊王の志ではあるが、あくまでも幕府がその体制を支える母体となることが前提である。

*2:分隊の際、新撰組御陵衛士の間でその後の人材の引き抜きはしないという申し合わせがあったそうで、そのため「斎藤一」のまま戻れなかったといわれています

*3:甲陽鎮撫隊の初期に斎藤の記載があるので途中から会津に向かったものと思われる